記録

読むな

大好きで大嫌いな音楽の話

私が好きだったり嫌いだったりする音楽について話そうかなと。


私の周りには生まれた時から音楽が溢れていました。というのも、母親が家で音楽教室を営んでおり、その関係で家には常に歌やらピアノやらが響いていました。そんな中で生まれ育った私は幼少から自ずと音楽を...と言いたいところですが、自ら音を奏でるようになったのは高一生になってからでした。家にグランドピアノまであるんだからやっときゃ良かったのに、勿体ない。


というわけで高校入学までタイムスリップ。時は20164月、新生活に胸を躍らす私が放課後訪ねたのは音楽室...ではなく弓道場でした。私は当初、弓道部に入ろうとしていました。何かかっこいいじゃん?でも見学行って思ったね、何か違うって。合わなかったとでも言っておこうか、ここは重要でないから適当に流すよ。


そんな折に私の運命を大きく動かす出会いがありました。そいつは私と同じクラスで、私の一つ前の席に座っていました。名を山下というのですが、読者諸氏の中にはこの名前に見覚えのある者もいることでしょう。彼は他校に進学した友達と一緒に吹奏楽部に入ろうと約束しているようでした。他校に行ったやつと同じ部活に入ろうというのも可笑しな話ですけどね。しかし、彼は極度のシャイボーイ。女生徒で溢れる放課後の音楽室に単身乗り込めず、音楽室の前まで行っては踵を返すというのを入学以来毎日繰り返しているようでした。その話を聞いて、吹奏楽部に入ろうとしたけど友達に笑われて断念した中1の自分を思い出しました。その後気づいたら口走っていました。「俺と一緒に吹部入らね?」


はい、入部しました。私はテューバ、山下はバスクラリネットに配属されました。それからというもの、目新しいことの連続でした。初めて出す音、初めて読む楽譜、初めて他人と合わせる合奏、その全てが輝いていました。文字通り無我夢中になって練習しました。同級生が皆帰った後も、先輩に混じり山下と残って練習をしていました。


夏の暮れ頃でしょうか、私は自然と音楽大学を志すようになりました。当時の私にそれ以外の道は考えられませんでした。それだけ"音楽"というものは私の全てだったのです。その後、親のツテでシエナウインドオーケストラテューバの主席を務めていた緒方淳一という方を紹介してもらい、そして師事しました。それからも衝撃の連続でした。やはり公立の弱小校とガチプロではやってることが全然違います。私は音楽大学、ひいては"プロ"を目指して練習に明け暮れました。体が追いつく限り楽器を吹きました。無理が祟ってアトピーが悪化し、12ヶ月家から出られなくなったりもしました。そして高二の秋、音楽の道を諦めました。


同年代の音大を目指す人たちの演奏を聴いたことがきっかけです。彼らの演奏はそれはそれは素晴らしいもので、私には到底敵いませんでした。勿論、私よりもキャリアが長い人たちなので、それは当然と言えば当然のことなのです。しかし、私は十分に絶望しました。これだけやってもか。体を壊してもか。どんだけ分厚い壁なんだ。それまでの私は無知過ぎたのです。生まれて初めて夢中になれた物を追いかけるあまり、冷静さを欠いていました。体全体で思い知らされました。「自分には出来ない」


また、音楽を介した他人との不和も私を音楽から遠ざけました。テューバという楽器は、基本的に誰かと音を合わせる楽器です。そこには人と人の関わりが必ず生まれます。まして1617歳が集まっているわけですから、トラブルは付き物です。部内の対立は絶えませんでした。


また、私は自身の自己顕示欲にも悩まされていました。認められたい。褒められたい。その為に上手くならなければならない。

しかし、私は自己顕示欲に塗れた音楽が大嫌いです。そういう音を聴くと吐き気がします。そのせいでどうしても歌を聴けない歌手が何人もいます。それほどまでに忌避している自己顕示欲に自身が溺れていました。私は自分の音が嫌いになりました。


楽器を吹いても全く楽しいと思えなくなりました。合奏は喧しいとしか思えなくなりました。部員全員が自分を笑っているように見えていました。とても、音を楽しむどころではなくなってしまいました。


大阪音大の声楽科を優秀な成績で卒業した才能溢れる母は、私にかなり期待していたようです。諦めたい意志を伝えた時、激しく衝突しました。しかし母は優し過ぎます。最後には許してくれました。少ない稼ぎの中からレッスン代等色々と金を捻出してくれた母の目を、私は真っ直ぐ見ることができませんでした。


学校では他所行きの面で笑えていましたが、家で笑えなくなりました。私は音楽に依存していたのでしょう、その後の日々は生きながら死んでいるようでした。俺には何も無い。あれだけやったこに何も残らなかった。音楽を手放した俺には何も残らない。そんなことばかり考えていました。


それから半年後、本来引退となる夏を待たずして私は吹奏楽部を退部しました。その折にも同級生とかなり衝突してしまいました。山下は「俺が吹部に誘わんかったらこんなことにならんかったんかな...」とも言っていました。馬鹿だなこいつ、最初に誘ったのは俺なのにね。でも退部したことで私は随分楽になれました。家でも笑えるくらいに。


その後、山口大学時代にオーケストラでテューバを吹いたりしますが、結局今は完全に距離を置いてしまいました。音楽をやったことは決して無駄だったとは思いません。多くのことを知れたし、色々な経験もできました。ただそれを差し引いても無視できない辛い経験があるのです。


音楽が好きと心から言える人を見ると羨ましくなります。私には出来なかったこと、私が手放した物、それを大事そうに抱える貴方は私の目にとても美しく映ります。どうか手放さないで。