夜の輝きについて

 初めて深夜徘徊をしたのは小6の時だった。近所のコンビニにエロ本を買いに行ったのだが、当然年齢確認を求められしっぽを巻いて逃げ帰ったのだった。中学の時にはごくたまに、退屈に辟易した日に夜中家を抜け出していた。物音を立てないように自転車のスタンドも1分かけて下ろした。自転車を押したまま家の前の道路を静かに歩き、曲がり角に差し掛かると、サドルにケツも下ろさず思い切りペダルを漕ぎだした。その瞬間の解放感は筆舌に尽くし難いものであった。肌を撫でる暗く冷たい空気が、俺を歓迎しているように感じた。人や車の往来の無い国道は地平線まで続くように見え、連綿と続く信号機の明かりはさながら提灯お化けの百鬼夜行であった。ラウンドワンは補導されてしまうので寄り付かず、コンビニかレジに顔隠しがあり店員に顔を見られないアダルトショップにばかり行っていた。それだけだったが、それで十分すぎる刺激だった。当時、非行仲間はいなかったのでいつも一人で出歩いていた。

 高校生になるとスマホを手に入れたので、遊びの選択肢が少し広がった。Twitterで知り合った女の子と何度か会った。もちろん同衾の為に。たいていはホテルに大人のツラをして入ったが、一度だけ屋外で事に及んだことがあった。幸い何者にも見つかることなく終えることができたが、これは刺激が強すぎてあまり良い思い出とは言えない。これらはあくまで稀な例で、普段は変わらず一人でウロウロするだけだった。

 一人暮らしを始めてからは一気に遊びの幅が広がった。補導に怯える必要も無くなったので、我が物顔で繁華街を歩くことができた。俺はもはや夜のビジターではなかった。酒にたばこ、女遊びまで解禁され目がくらむようであった。とは言え金を持っているわけではないので、安い居酒屋を選び、フィルターギリギリまで吸い切り、ごくたまに金が余ればそれを握りしめて淫靡な店を訪れた。少ない金と有り余る時間をめいっぱい使って遊び、明るくなればボロきれのように眠った。遊ぶ仲間もできたので、その楽しさはひとしおであった。習慣はなかなか抜けない。退屈な夜は一人徘徊することもあった。もはや暗闇とは見知った仲、街灯などはおせっかいであった。夜は良い。一人になることも、仲間と笑い合うこともできる。倫理と理性が充満する昼間には無い、人に寄り添う不思議な雰囲気がある。冷たく優しい夜の空気は、昼間社会性の暴力に曝された俺たちを癒してくれるのだ。

 しかし、夜はいつか明ける。いずれ終わりが来る。ある日、夕飯ついでに軽く飲んでから外に出ると、強烈な退屈が俺を襲ったのだ。つまらない!と全身で感じた。まだ帰るほどには満足していない。そうかと言ってやりたいことも無い。カラオケは行き過ぎて飽きた。女に行く金は無い。酒を飲んだところでだから何だというのだ。俺が好きだった夜は未知で溢れたブルーオーシャンであったはずなのに、一体いつからこんなにつまらない、ただ開いている店が少ない不便なだけの時間になったのだ。本当に悲しかった。夜は身近になるにつれ、その輝きをどんどん失っていったのだ。マンネリ化したカップルの仲に例えればわかりやすいだろうか。かつて味わった刺激、輝き、非日常がどんどんとよく知る、つまらない、日常の一部へと変わっていくのだ。嘆かわしい。日中は社会性を保つので必死な俺はこれからどこで羽を伸ばせば良いのだ! いつしか深夜徘徊の頻度は減り、夜遊びもあまりしなくなった。「もう体力的に夜更かしできないんだよね。」 大人ぶってそんなことを言ったりもした。夜はお終い、もう起きる時間だ。